偉大な医者・医学者ランキングです。世界の医療・医学の歴史の中で著名な偉人。~大畑亮介(リトリート)
順位 | 名前、年 | 業績など |
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1 | ウィリアム・T・G・モートン (1819年~1868年) |
モートンは、当初ジエチルエーテルがハーヴァード大学の化学教授により局所麻酔薬として使われるのを目にした。彼はやがてジエチルエーテルを歯科および外科で麻酔薬として使用するようになり、揮発性の液体を投与するための吸入器を製造した。 |
2 | 華陀 (不明~208年) |
華陀は中国の一流医師であり、鍼と手術のいずれの技能においても著名であった。 彼は患者にある種の麻酔を使用した最初の外科医であった。 |
3 | シシリー・ソンダーズ (1918年~2005年) |
ソンダーズは末期患者の身体的、感情的苦痛をやわらげる取り組みに献身した。 彼女の努力のおかげで、多くの診療に緩和ケアがとりいれられるようになった。 |
1位:ウィリアム・T・G・モートン
モートンの研究
1846年10月16日、若い印刷工ギルバート・アボットは、手術の際に全身麻酔を受けた最初の人となった。ウィリアム・モートンを麻酔医として、外科医ジョン・ウォーレンは25分間の手術を行い、アボットの顎から腫瘍を切除した。急きょ考案したガラス製の吸入器を用い、揮発性のジエチルエーテルをしみこませた海綿から出る蒸気を投与するという、痔痛緩和の問題の解決におけるモートンの研究はほかの追随をゆるさないものであった。
外科的手法発展の大きな障壁
モートンはボルティモア歯科医学校で学び、ホーレス・ウェルズとともに開業した。当時、コントロール可能な疹痛緩和法がないことが外科的手法の発展の大きな障壁となっていた。アヘンとアルコールは理想的なものではなかった。それ以外には、疹痛緩和を行わずに手術を行う方法があったが、これは非人道的であり、外科医はできるだけ速く手術を行わなければならなかった。
トマス・ベドーズとハンフリー・デーヴィ
麻酔を最初に試みたのは、イギリスで研究していたトマス・ベドーズと化学者ハンフリー・デーヴィであった。デーヴィは、亜酸化窒素を吸入することで自分の生えかけの智歯の痛みがやわらぎ、目がまわるような感覚が生じるようすについて書き記した。1844年、ウェルズは抜歯に亜酸化窒素を用いはじめ、翌年、モートンとともに小手術について試してみた。亜酸化窒素は十分な疾痛緩和をもたらさなかったため、理想的な麻酔薬ではないことが判明し、ウェルズはその取り組みを嘲笑された。
吸入ジエチルエーテルの実験
その一方で、モートンは全身麻酔薬としての吸入ジエチルエーテルの実験をはじめた。局所麻酔では感覚消失が生じるだけだが、全身麻酔は意識消失をもたらす。モートンはジエチルエーテルを抜歯に用いはじめ、アボットの手術で使ってみるようジョン・ウォーレンを説得した。
麻酔薬の発明者をめぐっての争い
モートンの新たな手法の知らせはアメリカ中、さらにヨーロッパに広まった。彼はジエチルエーテルの投与に用いたガラス製吸入器の製造をはじめたが、特許を取得しようとしたため、その手順の詳細を明らかにしようとしなかった。その後モートンとウェルズのあいだで麻酔薬の発明者がだれであるかをめぐって争いが起こった。
歯科医を辞め農業へ
歯科診療がうまくいかなくなって、モートンは歯科医を辞めざるをえなくなり、1850年に農業をはじめた。その間も特許の問題はまったく解決しなかった。
クロロフォルム導入
1847年にイギリスのジェームズ・シンプソンが麻酔にクロロフォルムを導入すると、すぐにジエチルエーテルにとって代わった。
安全で不燃性の麻酔薬製造
クロロフォルムは20世紀まで広く使用された。その後、化学工業はより安全で不燃性の麻酔薬を製造できるようになった。
2位:華陀
古代中国の医師
鍼、婦人科学、産科学にひいでた古代中国の医師、華陀はとりわけ外科医としての能力により称賛されている。
世界初の腹部の手術
彼は急性盲腸炎の治療のための虫垂切除術、また結腸の患部切除のためのおそらく世界初の人工肛門形成術などの腹部の手術を行った。
霊験あらたかな医師
宮仕えを断わった華陀は、出生地近くの地域で医師として診療を行い、わずか数ヵ所の経穴の鍼治療と薬草療法により患者の病気を治すことができたため、「霊験あらたかな医師」との評判を得た。
脊椎の両側にある鍼用の経穴は今も彼にちなんだ名をもつ。
五禽戯
華陀は5種類の動物(虎、鹿、猿、熊、鳥)の自然な動きをもとにした五禽戯(ごきんぎ気功の一種)とよばれる運動体系も作り上げたが、これは現在でも一般的であり、世界中で多くの人が実践している。
華陀の手術
華陀の手術については、『三国志』(270年頃)および『後漢書』(430年)に記述がある。
彼は腹部を開いて患部を切除し、腹腔を洗浄し、切開部を縫合し、薬草の軟膏を塗って傷口の治癒をうながした。
粉末の麻酔薬を考案
また麻沸散とよばれる粉末の麻酔薬を考案し、手術の前にブドウ酒とともに投与して患者の意識を失わせた。
その処方は今に残っていないが、チョウセンアサガオ、アコニット根、シャクナゲ、ジャスミン根をふくんでいたと考えられる。
富や名声を求めない道家
華陀は道家であり、富や名声を求めなかった。
熱心な弟子と多くの著作
多くの熱心な弟子をもち、著作を多数著したが、いずれも現存していない。
暗殺を疑われ処刑
いくつかの文献に、彼が魏王曹操の侍医となり、曹操に脳腫瘍の疑いがあるために手術を提案したところ、曹操が暗殺のたくらみを疑うようになって華陀を処刑したことが示されている。
華陀の死は中国医学のひとつの時代の終わりを告げるものであった。
手術は儒教の教えに反するもの
手術は儒教の教えに反するものとされたため、西洋の医師によってふたたび導入されるまでふたたび中国で行われることはなかった。
全身麻酔
全身麻酔は、1846年にウィリアム・モートンがアメリカ、ボストンのマサチューセッツ総合病院でジエチルエーテルを導入するまで、世界のいかなる場所でも用いられなかった。
3位:シシリー・ソンダーズ
職業人生を末期患者のケアに捧げた最初の医師
シシリー・ソンダーズは、だれもが痛みなく、尊厳をもって死ぬ権利があるという強い信念をいだき、職業人生のすべてを末期患者のケアに捧げた最初の医師であった。
緩和ケアのはじまり
その仕事は、現在では緩和ケアのはじまりと認められており、ソンダーズに国際的名声をもたらし、多くの国で末期疾患と死に対する見方に影響をあたえた。
ソンダーズの生い立ち
ソンダーズは裕福な家庭で育ち、イギリス有数の女子寄宿学校であるローディーンで教育を受けた。
オックスフォード大学に進学したものの、退学し、看護師としての訓練を受けた。
恋人の癌
1948年、彼女はポーランド系の患者、デイヴィッド・タスマと恋に落ちたが、彼は癌で死に瀕していた。
タスマは遺言により彼女にホスピスを設立するための2000ドルを遺した。
39歳にして医学を学ぶ
ソンダーズはその後、終末期の疼痛をコントロールする最善の方法を理解したいと考え、39歳にして医学を学んだ。
1957年に学位を得て、すぐにロンドンにある、末期患者の看護ケアを行うセント・ジョーゼフ・ホスピスに勤め、疼痛コントロールの研究をはじめた。
疼痛を予期して予防するという考え方
彼女はさまざまな鎮痛薬を詳しく理解することで、患者が覚醒状態を保ちながら有効な投与量が受けられるように、疼痛を予期して予防するという考え方をあみだした。
患者に嗜癖が生じる懸念
それまでは、患者に嗜癖が生じる懸念から、強力な鎮痛薬は痛みのある患者に対して使われないことが多かった。
セント・クリストファー・ホスピス開設
1967年、タスマの遺贈からはじまったプロジェクトであるセント・クリストファー・ホスピスがついにサウスイーストロンドンに開設され、ソンダーズが所長となった。
感情的苦痛の緩和
同ホスピスで、彼女は身体的苦痛とそれにともなう感情的苦痛の緩和に重点的に取り組んだ。
治療面ではなおも医学頼みであり、それは現在でも変わらないが、ソンダーズの仕事により、ヨーロッパとアメリカの多くの医師が診療に緩和的要素をくわえるようになった。
信仰心の篤い女性
ソンダーズは信仰心の篤い女性であり、安楽死を是としなかった。
このことから、彼女の患者が最後まで生活の質を保つことがさらに重要となった。
芸術家の教授マリアン・ブフーズ=ジスコと結婚
1980年、ソンダーズはデームの爵位に列せられ、また芸術家の教授マリアン・ブフーズ=ジスコと結婚すると、彼から人生と仕事に大きな影響を受けた。
長年にわたり看護
彼女は病んだ夫が1995年に死去するまでセント・クリストファー・ホスピスで長年にわたり看護した。
メリット勲章を受けたごく少数の女性のひとり
1989年、ソンダーズはイギリスでメリット勲章を受けたごく少数の女性のひとりとなった。
彼女は同ホスピスにおいて87歳で亡くなった。